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■ 枯淡 | 2007. 8.24 |
今日は、90才半ばで亡くなった、とてもお世話になった先生のお通夜であった。 (辛気クサイ話がつづきスミマセン) 親族の方のお話では、晩年は殆ど寝たきりの状態であったらしい。時々本を読まれたり、地図を見られたりと静かで淡々とした日常という生活であられたようだ。 診療所を閉院されて、久しく、かれこれ7〜8年はお顔を拝見していないけれど、母の葬儀の折には、家までおいでいただいて、「車中からお悔やみ申し上げました・・・」との丁重なお便りをいただいた。 以前「80才から眺めれば」という本の中で「老いる」のも結構良いものだ。・・・と。 男の場合は、思春期以降は「女性」のことで年中、アタマがいっぱいで。これは私の持論ではなく多くの男性に対して無差別に行なったインタビューに基づいている・・・。その他書物では「地図の読めない女 話を聞けない男」参照。) 数十年間は「そのこと」で振り回されるらしい。或る意味哀れな生き物ですネ、男も。 それでも、80才を過ぎると「普通の男性」なら、少し枯れてきて、幸か不幸か、「そのこと」から解放されて少し楽になるらしい。 少年時代に戻った感覚らしく、見るもの聞くものが「性」という欲望のフィルターを通さずに感覚されて、新鮮だそうだ。ナルホド。 ホンノささやかなことに、喜びや、楽しみを見い出せるので、案外、老境も面白いものかも知れない。 ただし、そういう楽しみを、世の中や自らの人生に見い出せる感性は、少し必要であろうから、若い時から、そういう素地素養は培っておくことも大事であろうし、豊富な人生経験も必要と考えられる。 人間には想像力というのがあって、50代の自分でも、90才、100才の感覚を思い起こすことは何となくでも、出来る。 このような想像は、若い人でも人生の態度が慎重にならざるをえない・・・と想像できる。 で、表題の「枯淡」であるが、これは、中国の古典などを読むと結構、頻繁に出てくる言葉で、優れた人物の一つの条件となっている。 年を取って、金銭欲、名誉欲、性欲、の虜となっている様子程、見苦しいものはない。 ・・とは言うものの。 作家の渡辺淳一氏、感性論哲学の芳村思風氏の両氏は、年を取っても食欲、性欲、バリバリで、謂わゆる「ギドギド人間」でOK。 渡辺氏等はさらに進んで、不良ジジイ、好色ジジイで社会や世間から、顰蹙を買うぐらいが丁度良いとおっしゃっている。 最終的には、個人の好みであるから、「枯淡」という生き方も、「欲望丸出し」の生き方も、バランスが取れていてサマになっていれば良いのではないか・・・と思いますが。 先述した「品格」というものとの兼ね合いもあり、面白いテーマと思い一筆いたしました。 ありがとうございます。 追記 90才代を越えても「枯淡」どころか、レオポルド・ストコフスキーとか言う、オーケストラ指揮者は、 はなはだしい「女遊び」がもとで30代の妻に離婚を言い渡されながら、少しもひるまず、「次の人」を求めて、その道にさらに磨きをかけて、はげんだそうだ。 或る意味、羨ましい限りです。 その生々しい生命力に。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |