コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

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■ 精霊流し2007. 8.17

これまで、2回、「精霊流し」をした。
亡父と亡母のそれである。一度目は今から28年前、昭和53年のお盆の夜に花火大会の後、
母と弟と妹と私(当時25才)で夜の9時半頃、殆どその晩は闇夜で、人気のない鉄道の橋の下で、その年の6月に50才で急死した父の精霊舟を川に流した。

憔悴の蔭の隠せない母を中心に家族はみな、やや不機嫌に押し黙り、ゆらめきながら寂しげにゆっくりと流れて遠ざかる一艘の小さな舟を、川下に消えてしまうまで見つめていた。
このときの言いようのない、どこかしら不安で暗鬱な悲しい心持ちは、今でも忘れない。

まだ大学の医学部の学生であった私と、美大に行っていた弟と、まだ高校生の妹を抱えた母は、まだ49才の未亡人だった。
家族の不安は当然であろう。開業医であった働き盛りの一家の大黒柱を、突然失ったワケだから。
その年の夏休みは、1ヵ月間がまるごとお盆のように空虚で、静かで、もの悲しい家内であった。

秋に入ると、私自身は、多少、もとからあった気まぐれと、傲慢と、厭世気分と、虚無感とが、一層と深まり、何回か大事な病院実習をさぼってしまい、試験の成績は及第だったらしいが、その翌年留年をして、私立大学に長男(私)を出している母をさらに経済的に苦しめた。

実家ではどういう意図があったか分からないが、母は、代診のドクターをどこからか見つけてきて、父の死後3年半あまり、毎年数100万円の赤字を出しながらも医院を切り盛りした。

奥さんではない女性を伴っていたドクター別宅に住まわせ、食事の世話をし、従業員に給料を出し、金の工面をし、何とかかんとか小さな医院の命脈を持ちこたえたが、突然、その手配の代診のドクターが辞めると言い出して、当時大学病院に勤務していた私は、何もかも放り出して、郷里の田舎町の吹けば飛ぶような、潰れかかった病院の後を継いだ。
昭和57年、29才の夏であった。

そして、丁度四半世紀25年後の夏。
3年前の平成16年のお盆に、母の精霊舟を同じ場所で同じ時刻に川面に浮かべた。2度目である。
同じような晩だった。その時はナカナカスムーズに流れてくれず、何度も川中へ出て舟を押し出したけれども、特に、その時は深い感傷もなく、弟と二人で淡々と作業に取り組んだ。

母は、6年前に建てた80床の老人施設で、前年の春に発病した、悪性の腹部腫瘍で黄疸と疼痛と発熱に苦しみ、手篤い看護介護を受けながらも年の明けた正月の十日に静かに息を引き取った。

もともとは色白だった母の顔色も黄疸のために濃褐色に変色し、熱のためにあえいでいる病床の姿を思い出すと、可哀いそうで可哀そうで今でも涙が出る。苦労ばかりさせて、何も良いことは無かったような気もして・・・。

あまり苦しい時は、やはり長男であり医者であった私を呼んだ。元気な時には母に呼ばれたことは一度も無かったのに。

悲しみは父の時ほど、当時は深くなかった気がしていたが、胸の奥の言い知れぬ寂寥が年々深まる。年を重ねるごとに、「母への愛」「母の愛」に気づいてとまどっている。

喪失の悲しみは、父より今は大きいかも知れないとさえ思うようになった。
「母への愛」なんて今まで考えもしなかった。父親への敬慕は何故か生前からあって、死後はそれが進んで、父と自分が一体化したような感覚があるけれど。

墓参りは欠かさないので、父と母のことを今でも毎日毎日、思い出さない日は無い。家族を思わない日が無いように。亡父母という過去。家族という未来。
その為に生きていると言っても過言ではない。突き詰めればそうだ。

社会に役立つことで、亡父母への恩を返し、そして、家族への愛の証として彼らの養護をする。そういう意味でも毎日仕事に励んでいる。
またそのように考えて自分自身を説得しているし、このいくらか仏教的で自己正当化的な思想は、ストレスと心労の多い日常にいる、自らの精神安定に少なからず寄与している。

この頃は、さだまさしの「精霊流し」を聞くと必ず泣いてしまう。
年を取ったせいであろうかと思っていたがそうではなく、それは実際に、「愛する人」のまた「愛してくれた人」の精霊舟を現実に流して別れの悲しみを身をもって味わったからだ・・・
と今は・・・そう思う。

ありがとうございました。

たくま癒やしの杜クリニック
浜田朋久


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