コラム[ひとくち・ゆうゆう・えっせい]

コラム:ひとくち・ゆうゆう・えっせい

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■ 死生観2007. 8.10

わずか60年ばかり前には、日本は戦時中であり、「特攻隊」なる「必死、決死」の4000人以上の若者達が死んでいったことを考えれば、50代半ばにもなって、少しばかり個人的な「死生観」くらい持っていたいと思う。

何かを決断するときに、多いに役立つのがこの「死生観」というヤツだ。
「人生観」と言っても良い。

「明日は死んでいるかも知れない」と思うと、殆どのことはどうでも良くなるし、何だか余計なことはしたくないなとつくづく思う。
また決断も迷わない。好きなことはする。嫌なことはしない。

最近ではかなり年配の方まで、「先のこと」「将来のこと」を心配される方が多くなった。

親しくしていただいている、ある社長さんは、目で合図するから、その時は「殺してくれ」とハッキリ明言されていて、私もとりあえず承諾はしたけれどもその時にならなければ分からない。我ながら卑怯だ。
まず、私の死生観は未完成だけれども、「生」と「死」はフィフティフィフティ、半々という感覚だけはある。考え方ではない。

生と死は、コインの裏表のように、生があるということは死があるということ。
だから、人生は毎日「コイン投げ」をしているようなもので、明日の命を100%保護してくれる人はこの世には存在しない。
ということは、「毎日、死は覚悟しておく」くらいの心の準備はしておいても無駄ではないから。

・・・とは言え、理屈では分かっていても、何となくダラダラと日々を過ごし、時間を浪費し、「アンチエイジング」だの○○健康法だの「生」に恋々として、未練がましいことこの上ない。あ〜あ、情けない。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」

忠義大義の為になら、ただちに死を選ぶなど、どんなにカッコヨク見得を切っても、ナカナカ、イザとなったら臆病風に吹かれ、見苦しい「生き恥を晒す」のがオチのような気がする。
武士道の国、日本は、そして自殺率は、先進国中、最高だ。

アメリカ先住民、インディアンの言葉に

「今日は死ぬのに良い日だ」

なんていうのがあるけれど、やや武士道的だ。
彼らは、とにかく勇気や名誉を重んじる。

「男の生きザマ」みたいなものには、この死生観は不可欠だ。
「君は何の為なら死ねるか?」なんて質問は女性に不向きで似合わない。

「女々しい」という言葉は女性に対して使わないことばだ。
日本の文化の中心は、やはりこの「武士道」と「高い精神性」と「美意識」だ。
行動の美というなら、男女共、どこまでも「優しく」
男ならやはり「どこまでも自己犠牲的」

昔、作家の三島由紀夫氏と石原慎太郎氏の対談で「男らしさとは何か?」という話になり「自己犠牲」という言葉で即一致したそうだ。
(三島氏は本当に自分の命を犠牲にして果てた。憂国の為に)

アメリカでもヨーロッパでも「サムライ」には強い憧れを抱いているらしい。
ハリウッド映画でも「ラストサムライ」なんていうのがありましたネ。
「ディープインパクト」とか「アルマゲドン」とか言う映画では、多数の為に個人が犠牲になるというストーリーは、アチラでも結構受けているようだ。ヒーローというのは、世界中どこでも同じだ。

年を取って、生に恋々として来たら、少なくとも美意識だけでも持とうと思っている。

それは外見とか見かけではなく、「行動の美」「精神の美」だ。高尚な精神は、常に立派な言葉や行動を生むとは限らないが、いつも意識しておく、考えておくことはできる。

あなたは何の為に「生命」を捧げますか。
子どもですか?家族ですか?仕事ですか?お金ですか?名誉ですか?地位ですか?お酒ですか?遊びですか?ギャンブルですか?それとも人類にですか?それとも愛ですか?
「生命」を「時間」とも置き換えても良い。それは同じものだから。
「死生観」=「人生観」=「大切にしている価値観」と思考を落とし込んで行けば、日常生活そのものが難しい決断の連続とも考えられるし、いつも美しく、潔く、爽やかで愛に満ちたものにしていくことは、凡夫で煩悩のカタマリである自分にも案外できるものかも知れない。

ありがとうございました。

たくま癒やしの杜クリニック
浜田朋久


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