[戻る] |
■ 経世済民 | 2007. 8.10 |
新聞は20年近く、テレビは10年近く、殆ど見ないで来た。 少し不安もあったが、基本的に何も困っていない。逆に豊かになった。 「時間」という人生で最も大切な資源を有効利用できたからだと思う。 友人も少ないが、これも別段、今のところ何も不自由はない。インターネットも月に1回買い物で使うくらい。電話も仕事以外は殆どしない。「精神的自由」をいつも確保しておきたいので「やめておく」ことがだんだん増えてくる。 時々、雑誌をまとめて買ってきて世の中を垣間見ると、人間の活動の愚かさ(自分も含めて)オカシサが、最近は、さらに増幅しているようで不気味だ。 「地上から浮遊し、上空に昇る程、全体が見えてくる」という、単純な理屈から、社会現象について考えるときは、できるだけ空間的に上空へ、もっと言えば、最低でも「月」くらいの位置から望遠鏡で眺める感覚で観察する。 時間的には、ビッグバン(宇宙誕生)から宇宙の終着まで、つまり「時間のすべて」から大きく、長く、視点を「拡張」して、自分の人生をその中にどのように位置づけるかというくらい「人間の営み」について「考える」ようにしている。 目的は、何度も繰り返すが「精神的自由」を確保する為と「物事の本質を見極める為」だ。 最近の不祥事とやらは、すべて「お金」に関わるようだ。 年金問題なり、政治家や企業の不正処理しかり、介護会社コムスン問題しかり、枚挙にいとまがない。 経済=金と考えている人が多いと思えるが、語源をたどれば出典は中国の古典の「経世済民」という言葉から来ている。 意味は 世を経え(ながらえ)民を済ける(たすける) 世の中を長く繁栄させ、国民を救う為の道具のひとつとして「お金」というものがある。 (これは以前のコラムでも述べた。) 現代の社会では、生きていくのにお金は「不可欠」な感じがするけれども、私の個人的感覚としては 小さな組織ではあるが、医療法人や社会福祉法人という、言わば「会社」の組織に属しているので、 実際に生活の為にお金を使うことは殆どない。 つまり、生活の為のお金である、家賃、水道光熱費、食費、ガソリン代、交通費、等々は払ったことはないし、銀行にさえ年に1回も行かないので、どこかしら実感が無い。本当は良くないことかも知れない。 ひとつひとつ払っていけばそのメンドウ臭さ、イヤラシサ。お金というものの大切さ、有難さが身にしみるかも知れない。 これが「専業主婦」だったり(死語かも知れない)独身の給与所得者であれば、生活の為のお金は毎日「払う」という行為が発生するので、「金銭」というものへの執着というか切迫感というのは尋常ではなかろうと想像はできる。(そういう時代も若いときはあったので) 一時期、謂わゆる社会の「ドン底」にいる人々と一緒に生活した経験も少しあるので、ポケットに数100円、数10円で、0円で何日も飲まず食わず(飲むというのは公園か学校へ行けばたいてい「水」は飲めたので正確ではないが)食わないでいるのは3〜4日は今でも平気である。 余談だが、戦争中は南方戦線などでは、実際の戦死者は餓死者が3万人もいて、鉄砲で撃たれる人より多かったそうだ。 「飢えた時」にはこの事実を思うことにしている。 民を救うとうい第一はまず「食べさせる」ことだ。 「お金」がいくらあっても食料が無くなれば人は生きてはいけない。 それは水や空気や温暖で、心地良い気温と共に、とても大切なものだが、この頃は「お金」やそれにまつわる多くの娯楽や、「おいしい物」や高価な装飾品やクルマや、家や、さまざまなぜいたく品に幻惑され、どこかしら見当ハズレの人生(生活)優先順位をつけている人々が多いという感がある。 日本の食料自給率は、先進国中最低だそう(40%あまり)だが、このことも国家や国民の上記の優先順位の誤認知、危機意識の無さを物語っている。 「お金」よりも大事なものは、世の中のいっぱいある。「お金」で買えないものもある。 例えば、それは、生命であり、肉体であり、真の意味の健康であり、人生そのものであり、愛である。 愛も金で買えるという単純な人がいるが、しかしそれはたいていは愛そのものではなく「愛の行為」か「愛に似た思い違い」だ。 私自身は、「莫大」のお金より「愛の行為」「愛の実践」のできる健康で若々しい肉体と精神を選ぶ。 年金問題とういのが世間で騒がれているが、長寿社会の特徴的な出来事で、介護保険制度と共に、「人口が減ってきた」ということと、「人間が長く生きることができるようになった」という幸福面と不幸な面の社会全体での調整と不具合の結果として容易に起こり得た事態と思える。国のせいシステムのせい官僚のせいというのは簡単だがマスコミの思考習慣はいつも「誰かのせい」だからどうしても目線が低くなる。・・・ように思える。 人間が、普通に「食べ」「風呂に入り」「寝る」というのは、実は大変なことなのだ。 若い人でも腰を痛めたり、脳や神経の病気や、大ケガや大病でもしたら別に老いてないにしても、 先述した「食べる」「入浴する」「寝る」(実は大変なこと)、「歩く」「喋る」さらには、娯楽を得る、ぜいたく中のぜいたくとなる。 どうも、長生きするとお金が要るらしい。 国家の制度がアテにならないなら、せめて預金でもしておこうとなるが、今は、老若男女、お金を稼ぐには、相当の知恵と、度胸と気力体力、運、出会い等、多くの事件を満たす必要があり、特に、今の若者にはそういうチャンスが減っているように思える。 そもそもお金は当てにならないかも知れない。一国の貨幣価値など、大きな戦争やスーパーインフレになれば、高額の貨幣でも紙クズ同然だし、よくよく考えてみると、今は何も当てにできない気がする。 個人的には「生きていく能力と力」みたいなものが一番重要に思えるので 【1】健康管理(食事、体操、鍛錬など) 【2】知識や情報の維持、スキルの獲得 【3】社会的信用の維持と獲得 を優先しており、「経世済民」と言うならまずは、国民にこのことを知らしめる義務があるのではないか。為政者には。 だから、やはり教育(生きていく為に必要な学習能力、適応能力人間関係能力、等々。特に子どもへの教育の重要性と「お金」の有害性は語るべくもない。) 医療(病気の治療というより、病気にならない健康的な心身を保持維持の為の)は経世済民への重要課題だ。 このような3つの観念からすると、人類はギリシャ時代より、幼稚で愚かになっているようにも見える。 人生や社会の「構造改革」に対する目線が、少々低いように感じる。それはすべての問題は「お金」。 解決するのも「お金」という無意識の思考習慣と「知恵知識」に対する価値付けの低さだ。 物心両面に渡り、豊かな人々の多くはこのことを知っているような気がする。 新聞もテレビも見ず、「生々しい生活者」でもない「多少、浮世離れ」した「ただ考える人」からの「知的生産物」として一筆書いてみました。 読んで下さってありがとうございました。 たくま癒やしの杜クリニック 浜田朋久 |